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Channel: 追憶のゲレンデ
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白馬みねかたスキー場(その1)(白馬村)

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(左)リフト乗場に掲示されているゲレンデマップ。第2リフト終点から頂上までの第3リフトは、最近は運行されておらず表記が消されている。(右)営業していた時のようす(2013年12月31日)。

「みねかた」には昨年の12月31日に滑りに行ったばかりだった。そのときの様子を記録したのが、→こちら。「『みねかたは大丈夫なのか?』という声も聞こえてくる」と書きながら、しかし、年末だったせいか、そこそこ賑わっていることに安堵していた。家族連れや地元のポール派が楽しんでいた。それが、今年9月になってホームページ上でクローズが発表された。

ホームページには以下のように掲示された。「前運営会社からの譲渡を受け、株式会社みねかたにて9シーズン運営を行ってまいりましたが、当社での来シーズンの運営継続が難しい状況となっておりました。運営を引き継いで頂ける企業を探す等、スキー場営業を継続する道を色々と模索しておりましたが交渉もうまく進まず、来シーズンに向けての動きも本格化する時期となり、非常に残念ではございますが、白馬みねかたスキー場はクローズさせて頂くことといたしました。(後略)」

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(左)ゲレンデ入口には鳥居。左手にセントラル・ロマンスの両ゲレンデ。(右)ゲレンデ最下部には数軒のレストハウスなど。圧雪車がスタンバイしているが、今シーズン稼働することはないのだろう。

やはり経営上は予断を許さない状況だったのだと、あらためて思い知らされた。オールドスキーヤーがのんびり滑るには適度なスキー場だったので、ひとりで数回出かけたことがある。のんびりできたということは、やはり客が少なかったということだろう。

「SKI GUIDE'86(山と渓谷社)」には、「日本の屋根北アルプス連峰を一望できる白馬山麓の北東斜面にリフト3基が効率的に配置され、3つのゲレンデ、3本の林間コースをうまく結びつけている。山頂からの景観はすばらしく、北アルプス連峰の景色を心ゆくまで楽しめる7kmの歩くスキーコースは、北アルプスの展望台として親しまれており、コース整備も万全で初めてスキーをはく人でも、安心して楽しむことができる。ナイター設備、ポール練習コースもある」と紹介されている。スキー場開設は昭和38年(1963年)であるから、50年もの歴史を持っていたことになる。

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(左)セントラルゲレンデ中間部左には、イタリアンレストランやロッジの建物が残っている。(右)しょうぶ平コース中間部を上から見下ろす。右手の白い建物はケーキハウス。

雨模様の10月の休日、峰方を訪れる。白馬の中心街から、国道406号を5kmほど鬼無里方面に入ったところ。ゲレンデ手前1km弱に駐車場があり、かつては臨時駐車場を必要とするほどだったと再認識する。ゲレンデ入口に雨降宮峰方諏訪神社の鳥居が立っている。社殿は右手奥にあるのだが、神社と共存している雰囲気はいにもローカルゲレンデにふさわしい。リフトはチェアをはずしたままだし、ゲレンデ下のさまざまな施設もそのままの状態。リフトの横に置かれた圧雪車は、雪を待ってスタンバイしているように見える。周辺の何軒かのプチホテル風の建物はなんとなく寂しげに見える。

ゲレンデ左につけられた林道を登っていくと、最近は営業していなかったイタリアンレストランやロッジの建物が、バブル期の遺構であるかのように徐々に廃墟化している。「イタリア料理カーサビアンコ 閉店致します。ありがとうございました」の貼り紙が悲しい。その先、しょうぶ平ゲレンデ脇にケーキハウス「ルフレ」の白い建物。こんなゲレンデ脇でどのくらいの来客があるのかと思っていた店だ。さらに行くと、第2リフトの終点。最近は稼働していなかった第3リフトの乗場もある。背の高いススキに視界は閉ざされがちだが、パノラマゲレンデから山頂部を見渡すことができる。歩くコースは北アルプス展望台だったが、メインゲレンデからは頸城山地方面の展望しか得られない。小雨の中、それも霞んで見えるだけだった。(現地訪問:2014年10月)

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(左)最後の頃は休止していた第3リフト乗場から、ゲレンデトップを見上げる。(右)第2リフト終点から見下ろす。

こちらもご覧ください→「白馬みねかたスキー場(その2)(2015年2月14日)」

中津川スキー場(岐阜県中津川市)

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(左)恵那山への黒井沢登山口。(右)恵那山への登山口を過ぎて、スキー場跡地に向かうには橋を渡る。ゲレンデ跡は右手奥。

3年ほど前に、本ブログのコメント欄に以下のような投稿をいただいた。「恵那山岐阜県側の黒井沢というところに昔スキー場があったそうです。愛知県在住の老スキーヤーが恵那山でスキーしたことあると言ってましたので、たぶんそこではないかと。今はオフロードパークになっているようです」

ずっと気になっていたのだけれど、最近になってこのスキー場についての資料を見つけた。「県別シリーズ18 郷土資料事典 岐阜県・観光と旅(人文社、昭和44年5月1日初版、昭和49年8月20日改訂版)」には以下のように記載されていた。「中津川スキー場(初級~中級向)所在地:市内川上黒井沢、交通:中津川駅からバスで約1時間10分、施設:ロープトー2基・トロイカ2基、宿泊:民宿25収容500人、ロッジ3収容120人、期間:12月下旬~3月中旬」ロープトー2基・トロイカ2基とあるから、それなりの規模だったと思われる。

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(左)オフロードパーク入口。「許可なく立ち入り禁止」と書かれている。(右)オフロードパーク入口付近から見たゲレンデ斜面。

中津川とスキーのイメージは結びつきにくい。冬に中央西線で長野から名古屋に向かうと、木曽福島・上松あたりではそれなりの積雪であっても、南木曽あたりからは少なくなり、中津川では雪の姿は見えないことが多い。ただ、市街地からは離れた恵那山麓という場所なので、積雪が多かったのかもしれない。

現地を訪れたいと思っていた。現地に通じる林道は長らく通行止めだったが、それも解除されたので10月の秋晴れの休日に出かけてみた。中津川市街から、その名も中津川という川に沿って国道363号を南下する。川上という集落で左折して川を渡る。ここからは約10km、中津川縁にへばりつくような曲がりくねった舗装林道をたどる。北から黒井沢という沢が合流する地点は、恵那山への登山口。10台ほどの登山者の車がとまっている。その先、橋を渡ると右手に黒井沢オフロードパークの入口があらわれる。

オフロードパークの入口には施錠されて、無断立入禁止などと書かれた立札がある。そこから敷地内の様子をうかがうと、スキーに適した斜面が広がっているように見える。スキー場の名残を感じられるようなものは何もない様子だ。現在はオフロードパークなので、それなりのかたちに斜面は変えられているようだが。周囲から斜面を見渡せる場所がないかと探し回ったが、深い樹林に囲まれていてなかなかよい場所が見つからなかった。ふと見上げると、紅葉をまとった恵那山が見下ろしているかのようだった。(現地訪問:2014年10月)

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(左)上部の樹林の合間から見おろした斜面。

おんたけ2240スキー場(王滝村)[再開]

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(左)王滝村中心部。案内板にはおんたけ2240の文字。営業休止中などの案内は途中には一切ない。(右)スキー場駐車場入口には「立入禁止」の文字が。

おんたけ2240スキー場は、9月27日に噴火した御嶽山の火口から4km圏内の入山規制範囲にゲレンデの半分以上が入っている。そのため、今シーズンの営業の見通しは立っていない。「追憶のゲレンデ」の範疇に入れてしまうつもりはないし、ぜひとも再び滑りたいスキー場なのだが、現在の状態を知りたくて現地に赴いたのでレポートしてみたい。

車のラジオからは、今日、開田高原マイアがオープンしたというニュースが聞こえてきた。スキー場関係者の「これまで以上に安全対策に力を入れる」という言葉が伝えられていた。マイアは同じ御嶽山麓ながら、4km圏外であるため、営業に踏み切ったもの。そんなニュースを聞きながら小雪の舞う木曽路を南下する。国道19号から西に折れて三岳を経由し王滝村の中心部を過ぎれば、雪も横殴りになり路面も積雪に覆われるようになった。

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(左)左は展望風呂の建物。ゲレンデへの階段は雪に埋もれている。(右)左はゴンドラ乗場、右はレストラン。中央奥に第4リフト乗場。このあたりだけは除雪されていた。

さすがに行き交う車もほとんどいない。道沿いの施設も多くは休業している。はたしてスキー場まで行ける状態なのか不安だったが、駐車場までしっかりと除雪されていた。駐車場入口には「御嶽山噴火のため これより上部立入禁止」の立札。例年なら、これだけの積雪があればとっくにオープンして賑わっている頃だろうに。ゲレンデ最下部のゴンドラ乗場付近も除雪され、事務所には灯りがともっていた。来るべき日に備えているようだ。しかし、それ以外の場所はただ雪の中に埋もれていくだけのようだった。

一時期休止していたゴンドラを再稼働させ、集客を増加させていたおんたけ2240。本ブログでは過去に、休止となってしまった下部のチャンピオン・高原・白樺の各ゲレンデを掲載した。メインゲレンデが好調なため、これらの廃止ゲレンデの復活も夢ではない……などと妄想していた矢先の出来事だった。一刻も早く噴火活動が沈静化し、復活する日が来ることを祈りたい。

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(左)第4リフト乗場。(右)道路際に立つ石碑の数々が、御嶽が信仰の山であることを再認識させてくれる。

→営業しているときの様子はこちら

【追記(2015年1月19日)】
気象庁から御嶽山立入禁止区域火口から4kmが、概ね3kmに変更となることが正式に発表された。それを受け、スキー場オープン準備を本格的に開始し、2月26日(木)営業開始を目指すこととなった。
【追記】
2月26日(木)無事に営業再開。稼働しているのは、ゴンドラ・第7クワッド・第5クワッド・ファミリーリフト。早く滑りに行かなければ。
詳細は同スキー場のインフォメーションサイト(http://ontake2240.jp/wp/)へ。

こちらもご覧ください → 2015年3月29日 おんたけ2240スキー場[再開報告]

横向温泉スキー場(福島県猪苗代町)

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(左)箕輪スキー場入口の案内板。(右)左にホテルマウント磐梯。右は第1ペアリフト乗場。

福島県の会津と中通りを区切る土湯峠。その西南側直下に位置していた横向温泉スキー場。リフト2本の小規模ながら、ゆっくりと冬の休日が過ごせるところではなかったかと思う。その横向温泉スキー場が2014シーズンから営業を休止している。原発事故による風評被害により、団体のスキー旅行など客足が大幅に落ち込んだことが当時、新聞に掲載されていた。

隣接する場所に箕輪スキー場がある。80年代にバブル期を象徴するような豪華ホテルを備えて華々しく登場し、横向温泉はそのエスケープ・ゲレンデのようなポジションになってしまった。私自身は周辺のスキー場に出かけたところ積雪が少なく、やむなく箕輪に転戦したことも何回かあったものの、横向温泉にまで足を伸ばすことはなかった。当時、箕輪ではリフト待ち30分などということもあったと記憶している。

「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」には「スパ施設をもつホテルマウント磐梯直営のスキー場。バラエティーに富んだ浴槽のある温泉施設が人気。ゲレンデをはさんで初級者向きと上級者向きの2つに分かれ、隣の箕輪スキー場から滑り込める」と記載されている。ペア1・シングル1のリフトがあったが、シングルリフトのある第2ゲレンデはずい分前から休止になっていたようだ。

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(左)ホテル前の第1ペアリフト乗場から、第1ゲレンデを見上げる。ペアリフトはチェアをはずされた状態。(右)第1ゲレンデの全景。

あらためて現地を訪れる。福島方面からは国道115号線の土湯トンネル出口から右に折れ、箕輪への入口を見送って直進すれば左手にホテルがあらわれ、その目の前に第1ゲレンデ、背後に第2ゲレンデの痕跡があらわれる。駐車している車も多く、ホテルとしてはそれなりの客が訪れてはいるようだ。ホテルのフロントでスキー場について尋ねると「今シーズンは休止しています」との返事だったが、言外に来シーズン以降の復活を期していることをうかがわせた。

ホテルの正面にはゆるやかな第1ゲレンデが広がっている。ゲレンデ右手に位置しているペアリフトはチェアをはずしただけの状態で、来シーズン以降の再稼働も可能と思われた。その先、磐梯吾妻スカイラインへと続く道は冬期閉鎖で除雪がされていない。左手にはずいぶん前に休止になった上級者向きの第2ゲレンデが広がっているが、その脇のシングルリフトは錆びついているようだ。小雪が降り続き周囲の展望は開けないが、晴れていれば気持ちの良い眺望が開けるのではないかと思った。

ふと第1ゲレンデを見ると数人のスノーボーダーが滑り降りてきた。箕輪からこちらに滑り込んできたものと思われる。そのまま車道を滑って、箕輪の下部まで降りて行った。帰り際に箕輪のゲレンデを覗いたが、それなりの賑わいを見せていた。横向温泉にも復活の日が来ることを祈りたい。(現地訪問:2014年12月)

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(左)以前に休止となった第2ゲレンデ。ゲレンデ左端にあるシングルリフトは錆ついているようだった。

あだたら高原スキー場・あだたらエクスプレス(福島県二本松市)

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(左)リフト乗場にあったゲレンデマップには、あだたらエクスプレスに沿うコースは「今期閉鎖」と表示。(右)子ども連れが多い印象を受けた。

1990年2月に職場の仲間と奥岳温泉に宿泊して、あだたら高原に滑りに出かけた。ちょうど「あだたらエクスプレス」というゴンドラが登場して、スキー雑誌などにも大きく取り上げられたシーズンだった。それまであまり知名度が高くなかったこのスキー場も、このゴンドラの登場によって一気にメジャーなスキー場の仲間入りをしたかに思えた。

この年はあいにく雪が少なく、あだたら高原のゲレンデも至るところに、草や土が顔を出していた。あだたらエキスプレスで上った最上部からのコースは急斜面が多くて、雪の付きがよいとはいえず、結構滑るのに苦労した記憶がある。その後も夏に安達太良山に登山する際には、この「あだたらエクスプレス」のお世話になった。

「日本のスキー場・東日本編1991(山と渓谷社)」によれば「昨シーズン、リフト名もコース名も一新してファッショナブルなイメージのスキースポットに生まれ変わったあだたらスキー場。今シーズンは'90シーズンのゴンドラリフトの新設にともなって登場したハリケーンスラローム上部とミルキーウェイのコース整備が行われ、いずれも滑りやすくなった」と紹介されている。当時はゴンドラのほか、ペア3基、シングル2基のリフトを備えていた。現在はクワッド1基、ペア3基。東北道・二本松ICからは16kmのアクセスである。

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(左)あだたらエクスプレスの乗場のシャッターは閉まっていた。(右)ゴンドラのワイヤーには搬器は取り付けられていない。

2013年11月、あだたら高原スキー場の公式サイトに「あだたら高原スキー場2013-2014スノーシーズンのゴンドラリフト運行休止について 今シーズンは諸般の事情でゴンドラリフト『あだたらエクスプレス』の運行を休止いたします」と掲示された。2015シーズンも引き続き、スキーシーズンの運行はストップのままだ。ただし、4~11月は登山用として運行されている。

あらためてトップシーズンにあだたら高原を訪れてみる。あいにくと雪が激しく降り続き、「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川……」という智恵子抄に登場する風景を楽しむことはできない。年末の休みでもありファミリー層を中心にスキー場は賑いを見せている。以前のイメージに比べ、圧倒的に子ども連れが多く、そこにターゲットを絞ったことが見て取れる。ゲレンデ最下部のゴンドラ乗り場のシャッターはおろされていて、ゴンドラが走らないワイヤーが虚しく空中を横切っていた。あだたらエクスプレスの運行休止が、この間のスキー場をめぐる情勢の変化を物語っているように感じられた。(現地訪問:2014年12月)

白馬みねかたスキー場(その2)(白馬村)

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(左)ゲレンデ入口には「白馬みねかた」の掲示が残ったまま。(右)深い雪に覆われたゲレンデ。

今シーズンから営業を休止している白馬みねかたスキー場。前回レポートは、シーズンイン前のものだったので、実際、冬になってからはどんな様子なのか知りたいと思っていた。

日曜日の午後3時過ぎ。通称オリンピック道路には、そろそろ白馬方面からの帰り車が増えてきたようだ。サンサンパーク白馬脇の信号を曲がり、国道406号線に出て白馬駅方面へ。ゲレンデ入口には「白馬みねかた」の掲示は出されたままだったし、駐車場は除雪されていたが、当然ながらゲレンデ下部も深い雪に覆われて、ひっそりとしている。

ゲレンデ下のいくつかの建物は撤去されてはおらず、そのままの状態。リフトはチェアを撤去されただけの状態だ。人の姿も見えず、物音もせず、嶺方の集落は雪の中でひっそりと息をひそめているかのようだ。昨秋の地震ではこのあたりもかなりの被害があったはずだが、その様子もよくはわからない。

ゲレンデ近くには何軒かのペンションなどもあったはず。そう思って見渡しても、近隣の建物はひっそりとして客の姿は感じられなかった。ここに宿泊して、白馬の別のスキー場に送迎するという方法もあるのではないかと考えていたが、除雪もされていない建物を見ると、そのような選択をする客は多くはないようだ。(現地訪問:2015年2月)

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(左)ゲレンデ下部の建物やリフトはそのまま雪に埋もれている。(右)リフトはチェアを取り除かれただけの状態。

こちらもご覧ください→「白馬みねかたスキー場(その1)(2014年10月31日)」

柳津温泉スキー場(福島県柳津町)

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(左)町内の各所には「柳津温泉スキー場」の案内掲示が残っている。会津柳津駅前の地図にも。(右)只見川対岸から見たゲレンデ全体。センターハウスより上の第2ゲレンデに屈曲シュレップリフトがある。

柳津温泉スキー場は前々から気になっていた。それは、途中で屈曲する珍しいシュレップリフトがあったからだ。シュレップリフトはJバーリフトとも呼ばれる。「下るよりも上る方が難しいスキー場」「リフトに乗るためだけに来る人もいるスキー場」などとも呼ばれていた。早くそのシュレップリフトに乗りに行かねばと思っていたのだが、最近になってネット上の掲示で今シーズンからのクローズを知ることとなった。やないづ振興協会のサイトには「柳津温泉スキー場はクローズとなりました。長きにわたってご愛顧頂きまして誠にありがとうございました。」と掲示されている。

1979~81年にかけて整備され開業したというから、30年あまりの歴史だったことになる。まさにバブルの時期にあわせるかのような開業時期であり、ピーク時には年間1万人の利用があったという。「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」には、「柳津温泉がベース。温泉街からはわずか。宿泊は西山温泉街も利用できる。コースは3本、ナイターは木~土曜日。レンタルあり、スクールなし」と紹介されている。リフトはシングル2基と記載されているが、うち1基は上記のシュレップリフトである。最大斜度は35度、最長滑走距離800m。

ゲレンデの構成も少々変わっていた。只見川に沿う道の脇に駐車場と登行リフト的な第1リフト(シングルリフト)乗場がある。そのリフトには中間乗場があり、中間乗場から上の部分は第1ゲレンデとなっていた。リフト終点にはセンターハウス。そして、そのセンターハウスの上にシュレップリフトが架かっていた。このシュレップリフトは途中で右に屈曲している。第2ゲレンデがそのように曲がっているので、それにあわせて曲げたものと思われる。この屈曲点のロープの取り回しは複雑のようで、詳しくは索道関係のサイトを参照いただきたい(→「索道観察日記」「別冊つなわたり/ロープウェイに乗ろう」)。

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(左)第1リフト乗場。道を跨いでゲレンデへとワイヤーが伸びている。(右)なかば雪に埋まった第1リフト乗場のゲレンデマップ。上部だけ見えている。

柳津町については、会津の盆地から只見川に沿って少し山間に入ったあたり…という程度の地理的な感覚しか持ち合わせていなかった。しかし、観光ガイドなどによると福満虚空藏菩薩圓藏寺の門前町として栄えてきたという歴史が記されていて、少し印象を改めることになる。会津坂下方面から国道252号をたどり中心街に入れば、それなりの温泉街が形成され道沿いには名物の「あわまんじゅう」の看板があちこちに見られる。「赤べこ発祥の地」の掲示も見られるが、これも圓藏寺の歴史に由来するものだという。

そんな中心街から只見川を挟んだ対岸を見やれば、柳津温泉スキー場のゲレンデのほぼ全体を見渡すことができる。ゲレンデは深い雪に覆われている。上部ゲレンデのあたりまで上っていく林道があるはずだが、除雪されているはずもなく、シュレップリフトをはじめとする上部のようすを近くで確認するすべはない。雪のない季節に再訪したいと思う。ただ、シュレップリフトがそのままの状態であり、支柱やワイヤーも撤去されてはいないのが遠目にも見てとれた。

只見川沿いの第1リフトの乗場に行ってみる。リフト乗場は深い雪に覆われ、リフト券売場の小屋やゲレンデマップなども雪に埋もれている。リフトのチェアははずされているものの、ワイヤーは道を跨いでゲレンデへと続いていた。リフト乗場のすぐ後ろには、奥会津の雪深い山々から水を集めた只見川が滔々と流れていた。(現地訪問:2015年2月)

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(左)第1リフト乗場のリフト券売場。

芦ノ牧温泉スキー場(福島県会津若松市)

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(左)介護老人施設の建物の右手に広がるゲレンデ斜面が見える。(右)施設の裏(南側)から斜面を見上げる。

会津盆地を国道121号で南下する。平地が尽きて山間に入ったあたりに位置するのが芦ノ牧温泉。阿賀川を見下ろす高台、国道が阿賀川を横断するあたりに温泉街が広がる。開湯は1200年前、僧・行基による発見とも弘法大師によるともいわれている。蘆名家の牧場がこの近くにつくられたことからその名がつけられたとする説と、温泉街を流れる阿賀川が渦を巻いていたことに由来するという説がある。温泉には子宝に恵まれる効能があるともいわれている。江戸時代には近隣の利用のみの温泉であったが、明治35年に道路が開通したことにより温泉地としての発展を見せていった。

土曜日の午後3時、大規模な温泉ホテルでは到着するお客様を玄関前で迎える風景が見られる。現在は10数件の温泉ホテルが営業をしている。しかし、シャッターを閉ざした土産店やスナック、廃業したホテルも垣間見られ、少々寂しさを感じさせる界隈もある。昭和を感じさせてくれる町並みといえなくもないが。温泉街周辺の自然を楽しめる散策路も周辺に整備されている。

この芦ノ牧にスキー場があったことを知ったのは、「'76オールスキー場完全ガイド(立風書房)」による。同誌には、「コースというほどのものではなく、リフトの左側が整地してあり、300mほどのスロープができている。コブも少なく、傾斜も12~20度と初級者や家族連れに向いている。規模からいっても、やはり家族そろって温泉を楽しみながらスキーを……といったところ。中級以上にはまったくものたりない。リフト1基(200m)ナイターなし、土日祭日にスキー学校開校」と記載されている。

芦ノ牧温泉街の下を通過するトンネルの北側で、芦ノ牧温泉街には右折するが、そこを左折する。坂を上って行けば介護老人施設の駐車場に導かれる。その施設の南側にある斜面が「芦ノ牧温泉スキー場」の跡地ではないかと、事前に地図を見て見当をつけていた。その施設の職員の方に聞いてみると、やはりそこがスキー場の跡地だということだった。ガイドには「リフト1基」と書かれているが、簡単なロープトゥのようなものがあっただけのようだ。

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(左)施設の駐車場から芦ノ牧温泉街を見下ろす。(右)遠景からゲレンデ付近を見る。中央の杉林に隠れたあたりがゲレンデ跡。

ガイドにあるように「300mほどのスロープ」といった規模である。初級者が練習のために、あるいは家族連れで楽しむといったようなゲレンデだったのだろう。施設の駐車場からは眼下に芦ノ牧の温泉街を見おろすロケーションであった。施設の除雪車がさかんに駐車場周辺の除雪作業をしていた。周囲の山並みはまだ雪に覆われ、会津の山間に本格的な春が訪れるのは、もう少し先のことになりそうだった。(現地訪問:2015年3月)

おんたけ2240スキー場(王滝村)[再開報告]

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(左)第4ペアD線(カラマツリフト)は休止。(右)セントラルゲレンデ。少し雪は重いけれど、快適に滑れた。

「おんたけ2240」は、昨年の御嶽山噴火で立入禁止区域が火口から4kmとなったことにより当初は営業ができなかったが、立入禁止区域が3kmと変更されたことにより、2月26日から営業を開始した。「早く滑りに行かねば」と思っていたが、なかなかその機会がなかった。ようやく3月も終盤になって、遅まきながら滑りに出かけた。「追憶のゲレンデ」の本来の趣旨とは少しずれるけれど、レポートしておきたい。

ゲレンデに出て、しばし黙祷のあと滑り始めた。山岳に親しむ者としては他人事と思えない。駐車場にはけっこう車がとまっているように見えたけれど、ゲレンデはさほど賑わっているとはいえなかった。ゴンドラもクワッドも、ひとりで乗車することができるくらい。空席を運んでいることも多いようだった。雪質はいいとはいえないし、雪が降り続き濃霧で視界も限られるという天候だったせいもあるだろう。

施設も下部のレストラン「ブラザオリオン」が営業しているくらいで、中腹のレストランや展望風呂なども営業していなくて、ちょっと寂しい感じ。また、ゴンドラ乗場横から出ていた第4ペアD線(カラマツリフト)が動いていないので、第5クワッドに乗ろうという時にはちょっと不便に感じた。ゲレンデ最下部から上部に行こうという時には、ゴンドラに乗るか、ちょっと歩いてファミリーペアに乗るか。

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リフト券購入時に手渡されたペーパー。

リフト券を購入すると、「非常時の防災対策」「緊急避難場所」が書かれたペーパーを渡された。各所にヘルメットが用意され、各レストハウスは緊急時の避難場所となっていた。噴火が発生した場合の備えがなされていることをあらためて認識して、自然災害の記憶が蘇ってきた。

近隣の宿泊施設は営業しているところもあるし、していないところも見受けられた。地域への影響も計り知れない。御嶽山の噴火活動が沈静化し、来シーズン以降も「おんたけ2240」がフルに営業することを祈りたい。(シニア4時間券:3,100円)

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(左)ゴンドラ山頂駅に備え付けられたヘルメット。(右)ゴンドラ山頂駅レストハウスの掲示。緊急時の避難場所になる。

こちらもご覧ください → 2014年12月13日 おんたけ2240スキー場

スノーヴァ足利(栃木県足利市)

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(左)パチンコ店などに隣接して、野州山辺駅前にある「栃木レジャーランド」がかつての「スノーヴァ足利」の跡。(右)野州山辺駅の高架ホームから見る。

「渡良瀬橋」という名前で思い出すのは、森高千里の曲。足利の中心街からその渡良瀬橋を渡って、川の南側へ。幹線道路から分岐して東武伊勢崎線の野州山辺駅前に出る。そのあたりの線路は高架になっていて、野州山辺駅も想像していたのとはイメージが異なる高架駅だった。駅の東側には広い駐車場をもつ大規模スーパーやパチンコ店があるが、その一角に「栃木レジャーランド」と書かれた建物がある。現在はゲームセンターになっているが、片流れの勾配屋根になっていてちょっとふつうの建物とは違う感じを受ける。この建物がかつては「スノーヴァ足利」という室内スノーボード場だった。

「スノーヴァ足利」は2000年10月にオープン。わずか2年足らず後の2002年6月30日には、親会社の事業計画の中で不採算施設として閉鎖された。北関東初の本格的通年型屋内スノーボード場として登場。東武伊勢崎線・野洲山辺駅より徒歩1分という立地。建築延床面積 3,461.16 ㎡(1,047 坪)、構造・規模は鉄骨造り・2階建て、全長 60 m、幅 33 mの規模であった。隣地にはパチンコ店も出店し、一帯は複合商業施設として開発された。スノーボードのことはよくわからないが、当時滑った感想をネット上でいくつか知ることができる。「予想以上に小さい」「コースはやはり短い」「数ターンくらい」そして「すいている」。

ザウスなどに比べるとずっと規模は小さい。「栃木レジャーランド」に入ってみると、倉庫のような雰囲気で、以前は室内スノーボード場だった雰囲気が伝わってくる。店員に尋ねてみると、確かにこの建物がかつての「スノーヴァ足利」だったという。天井に傾斜がついていることが、この建物の履歴を示していた。

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(左)勾配のついた屋根がスノーボード場だったことを示している。(右)室内に入っても天井に傾斜があることがわかる。

ザウスのように、スキーに行くのに時間がかかりそうな湾岸地域に人工ゲレンデが立地するのは何となくわかる。しかし、ここ北関東では群馬・栃木の山間部のスキー場までそれほどの距離があるわけではない。「通年」の施設だったということだが冬に営業する理由は見当たらないし、夏であってもこの北関東の立地では集客が厳しかっただろうと思う。春3月とはいえ、少し寒さを感じる曇り空。季節のせいか、天候のせいか、少し殺伐とした雰囲気を感じる一帯を冷たい風が吹き抜けていた。(現地訪問:2015年3月)

伊吹山スキー場(その1)(滋賀県米原市)

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(左)二合目の上から一合目・二合目ゲレンデと遠景に琵琶湖を見下ろす。(右)ゴンドラ乗場に掲示されていたゲレンデマップ。読み取れない箇所も多い。

連休の一日、懸案だった伊吹山に出かけた。百名山登山にあわせて、廃スキー場探索もできるという一石二鳥。伊吹山は古くから人々に親しまれた山であるが、いまでは山頂近くまで「伊吹山ドライブウェイ」で上ることができる。しかしスキー場は山腹に設けられていたので、もちろん下から歩いて登らなければならない。なお、登山としての記録はこちらへ。

そんな伊吹山の南斜面に開かれた伊吹山スキー場は、この地域での老舗的なゲレンデ。1952年開設。2008年以降休業し、2010年にはリフトなどの施設が撤去されて閉鎖となった。駐車場係の小父さんは「スキー場は何年も前に廃止になった。雪が少なくなってしまってね」と話してくれた。しかし、登山道に沿ってスキー場の痕跡をいまも随所に見ることができた。

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(左)登山口の脇にあった山麓リフトの乗場跡。(右)ゴンドラ乗場へのゲート。

登山協力金(300円)を徴収している小屋のすぐ先に、登山道入口がある。その右手に一段高くコンクリートの擁壁があり、脇の草に覆われた階段を登るとその上が山麓リフトの乗場だったようだ。コンクリート部分が残っているだけだが、上部に向けてリフトの切り開きの跡も見て取ることができた。

登山道に入らずに林道を進む。西武カラー(最終盤は経営主体は西武ではなかったが)の「伊吹山ゴンドラ」というゲートの前を過ぎると、すぐにゴンドラ乗場前の駐車場に出る。乗場の大きな建物はシャッターを閉ざしていたが、ワイヤーは上部に向かって張られたままで、搬器を取り付ければ再稼働も可能な様子。スキー場廃止後も、ゴンドラは2010年まで夏山用として稼働していた。

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(左)ゴンドラ乗場。シャッターが閉まっている。(右)一合目にある山麓リフトの降場跡。

登山口にもどり登山開始。杉林をぬけると一合目。いったん舗装道に出る。すぐ右手に山麓リフトの降場のコンクリートの痕跡がある。その上には何軒かのロッジが建ち並び、前方に一合目ゲレンデが広がっている。幅広で快適な斜度に見える。登山者用トイレの脇には、一合目ロマンスリフトの乗場のコンクリートの痕跡が残っていたが、リフトの支柱などはすべて撤去されている。パラグライダーで飛び立とうとする人たちで賑わっていた。

一合目ゲレンデの左脇を登って二合目に至ると、左手(西側)には一段高く一合目ロマンスリフトの降場と思えるスペース。その右手には「旅館・食堂」と壁面に書かれた建物が廃墟となっている。そのさらに奥には二合目A・B線のリフト乗場の小屋が残っていた。ここもリフトの支柱などはすべて撤去されているが、リフトの切り開きの跡ははっきりわかった。その左には二合目コースの急斜面で広がっていた。

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(左)一合目ロマンスリフトの乗場の痕跡。一合目ゲレンデを見上げる。(右)二合目付近には食堂・旅館の廃墟。中央奥の樹林の中には二合目A・B線の乗場の小屋が残っていた。その左は二合目ゲレンデ。

ゲレンデ内にはさまざまな建物がいまもあって、スキー場開設時の賑わいを感じることができた。振り向くと広い一合目ゲレンデと近江の平野、そして琵琶湖がその向こうに広がっていた。
(三合目から上部のレポートは、次回に続く → 「伊吹山スキー場(その2)(2015年5月22日)」
(現地訪問:2015年5月)

伊吹山スキー場(その2)(滋賀県米原市)

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(左)三合目のゴンドラ降場ステーションの建物。(右)ゴンドラ上部から山麓方面を見下ろす。

前回に引き続き、伊吹山スキー場のレポート。「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」には、以下のように掲載されている。「関西スキーの発祥地で古い歴史をもつ。標高855mの五合目から一合目まで縦に長いスキー場。五合目から琵琶湖めがけて滑り込む全長3.5kmのダウンヒルは迫力満点。三合目に伊吹高原ホテル、一合目、山麓には民宿などからなる旅館街があり、すこし離れた彦根プリンスホテルなども利用できる。ファミリーでのんびりするのがおすすめ」

前回は二合目の上までレポートした。二合目からゲレンデの右側を登ると三合目に登りつく。ここがスキー場の中心部。登山道の左手には廃墟となった伊吹高原ホテルの建物があり、そのさらに奥(西側)にはゴンドラ降場の建物がある。ここもシャッターが閉められている。ホテルの東側にはリフト券売場の小屋があり、その横にリフトのコンクリート部分が建ち並んでいる。二合目A・B線の最上部と思われる。

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(左)三合目の登山休憩舎から見る。右からゴンドラ降場、伊吹高原ホテル、その左にリフト券売場と二合目A・B線の降場。(右)伊吹高原ホテルの前にあったゲレンデマップ。

北側を見上げると雄大な伊吹山がそびえている。左手は上部の四合目まで、四合目コースの斜面が広がっている。ゴンドラから北側に下ったあたりと思われる四合目ロマンスリフト乗場の痕跡はよくわからなかった。四合目まで登山道を登ると、そこには四合目ロマンスリフト降場のコンクリート部分が残されていた。

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(左)ゴンドラ降場から伊吹山頂を見上げる。左のゲレンデは四合目まで、右手のゲレンデは五合目まで広がっている。(右)四合目にある四合目ロマンスリフトの降場の痕跡。

三合目から右(東)に三合目ゲレンデが下っていて、それに沿って三合目A・B線があったはずだ。ホテルの東側には降り場があったと思われる平坦地があり、見下ろすとはるか下部に乗場のコンクリート基礎部分があるのが見て取れた。

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(左)ホテル横の三合目A・B線の降場の跡。(右)三合目ゲレンデを見下ろす。最下部に三合目A・B線のリフト乗場の跡が見えた。

最後は五合目コース。三合目から見上げると右側に細長くコースが伸びているのがわかる。リフト乗場・降場の痕跡はよくわからなかった。降場は五合目の小屋の東側にある石垣のような場所の上かと思われたがはっきりしなかった。

五合目がスキー場の最上部にあたる。ここまで登山道はゲレンデの中を登ってきたが、ここからいよいよ急峻な山腹にジグザグを描いて登っていく。こうして歩いてみると実に広大なゲレンデだったことがわかる。振り返ると琵琶湖の広がりが大きい。独立峰の山腹に位置するゲレンデなので、展望の良さは折り紙付き。南斜面だったことも災いして雪不足により廃止になってしまったのは悲しい。ただ、この山に登ることによって歴史あるゲレンデの姿に少しは近づけたのではないかと思う。(現地訪問:2015年5月)

こちらもご覧ください → 「伊吹山スキー場(その1)(2015年5月3日)」

敦賀国際スキー場(福井県敦賀市)

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(左)国道161号沿いにある敦賀国際スキー場の廃墟と化した建物。大型車も前を頻繁に通過する。ゲレンデは建物の裏側。(右)ゲレンデ側から見た下部の建物。

関西(滋賀県)と北陸(福井県)を結ぶルートさまざまあるが、国道161号もそのひとつ。県境の滋賀県側には営業を続ける国境高原スキー場があるが、それと国道を挟んで相対する場所にあったのが敦賀国際スキー場。国道沿いにあるため目に付きやすく、多くの廃墟マニア的サイトに画像が掲載されている。いまさらではあるけれど現地を訪れてみた。

「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」には以下のように紹介されている。「京都から車で2時間。R161に面する初中級向けスキー場。ゲレンデは初級、中級、上級コース各1コースずつ」シングルリフトが1基あった。

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(左)ゲレンデ左手にあるリフト。部分的に新しく見える。(右)側面から見たゲレンデ全体。規模は小さいもののさまざまなコース取りができそう。

国道沿いのスペースに車をとめて、ゲレンデに向かう。向かい合う国境高原は、並列に何本ものリフトが並び現役の貫禄を見せている。大型車も頻繁に行き交う国道を渡り敦賀国際の前に出る。国道沿いに建ち、至るところガラスが割れて廃墟と化している「敦賀国際スキー場」と書かれた建物は、リフト1基のスキー場にはやや不釣合いに大きく思える。レストランや宿泊施設であったようだ。向かって左手には三角尾根のロッヂ風建物。貸しスキーなどいくつかの建物が並び立っている。

左手には一段高く駐車場がとられていて、そこから程近く、ゲレンデトップに向かって左側にシングルリフトの残骸が残っている。チェアははずされているものの、機器や支柱・ワイヤーなどは稼動時そのままだ。最上部のリフト降場まで見通すことができる。左手の山腹はゲレンデをつくる際に造成したためだろうか、土が削り取られた斜面がむき出しになっている。ゲレンデ規模は思っていたよりも小ぶりだが、さまざまなコース取りができたようすが見て取れる。

2003シーズンを最後に閉鎖となった。滋賀・福井県境付近には他にもいくつものゲレンデが点在している。その影響もあったのだろうか。この規模では集客にも限界があったということだろうか。(現地訪問:2015年6月)

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(左)ゲレンデ中腹から見下ろす。建物の向こう側には国道を挟んで、国境高原スキー場が広がっている。

ベルグ余呉スキー場(滋賀県長浜市)

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(左)スキー場へのアクセス道分岐に残る案内板。(右)レストハウス横にあったゲレンデマップ。

前回同様、今回も滋賀・福井県境に位置するスキー場を取り上げる。琵琶湖東岸の木之本ICで降りて国道365号を北上する。県境の栃ノ木峠の滋賀県側に、現在も営業を続ける余呉高原スキー場(ヨゴコウゲンリゾート・ヤップ)がある。さらにその手前に右(東)に「ベルク余呉スキー場」のアクセス道が分岐していて、その角には案内板がいまも建てられたままである。このベルク余呉は、余呉高原と同じ経営主体によるものだが、5年ほど前に営業中止となっている。

ベルク余呉のホームページには、2010年12月17日の日付でコメントが掲載されている。「お知らせ。(前略)今シーズンの営業はゲレンデ整備の遅れから残念ですが中止とさせて頂きます。ご来場を予定していただいている皆さまには誠に申し訳ありませんがご了承頂きますようお願い申し上げます。なお、姉妹施設の余呉高原リゾートヤップは通常通り営業いたしますので、ぜひご利用下さい。」

余呉高原と共通リフト券で一日に両スキー場を楽しむことができた。斜面構成は初心者30%中級者60%上級者10%。リフトはペア3基クワッド1基、最大滑走距離1600m、最大傾斜30度、トップ・ボトムの標高差は250m。北陸道木之本ICから27km、1000台の駐車場があった。余呉高原とゲレンデを接続する計画もあったというが、その後、余呉高原だけで十分という集客状況になったということだろう。

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(左)第一駐車場から、ゲレンデ下のレストハウスやレンタルスキーなどの建物と第1・第2リフト乗場が見える。(右)ルーキーコース中間部からゲレンデ下部を見下ろす。右手一段高い場所に第2・第5リフトの降場が見える。

国道365号から分岐する地点はゲートで閉ざされているので、約2kmを歩いて上りゲレンデまで向かう。アクセス道はところどころ崩れている状態だ。やがてレストハウスやレンタル・リフト券売場などの建物と、広大な駐車場があるゲレンデ下部に到着する。建物はガラスが割れ廃墟と化している。ゲレンデ構成はちょっと複雑。ゲレンデ最下部にはリフト2本の乗場がある。そのうち、左側のリフトはすぐ見上げた先がゲレンデトップでとても距離が短い。右手のもう1本は距離は長いがなだらかな緩斜面。しかし、その両リフトの反対側に逆に降る中級向け斜面があり、残りの2本のリフトはそちら側に架かっている。そのあたりのゲレンデは一部灌木が茂り始めていた。

リフトはチェアをはずされているものの、整備をすれば運転再開も可能な感じを受ける。谷を挟んだ向こう側には余呉高原のゲレンデが見える。関西方面からのアクセスは容易だが、他のゲレンデも隣接している。ゲレンデ構成にはどうも無理があったように思われ、どの程度魅力のあるゲレンデとしてとらえられていたか、疑問に思えるのだった。

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(左)第2リフト降場付近から、第1・第3リフト降場付近を見る。(右)第2リフト上部から下部の建物を見おろす。向こうに余呉高原のゲレンデが見える。

[番外編]神田スポーツ店街(東京都千代田区)

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(左)駿河台下交差点西側から小川町方向。(右)小川町から駿河台下方面。

かつて東京で過ごしていた頃の職場が小川町交差点の近くにあったため、淡路町から小川町、駿河台下、神保町あたりにかけては懐かしい場所である。

もともとスポーツ用品店が多かったからだと聞いたことがあるが、スキーブームはなやかなりし頃、この近辺にはスキー用品店が林立していた。いや、いまでも林立しているのだが、その数や華やかさはやはり少し衰えているように感じる。20年以上着続けたスキーウェアもこの界隈の店で購入したと記憶している。

スキー用品だけでなく、登山用品を調達するのにも便利だったし、書店も多くてスキーや登山関係の本や地図を入手することもできた。遠い山を夢想しながらこの界隈を歩くのには楽しいことだった。大学も界隈には多いので、学生相手の割と安い食堂も多かった。

その頃の漫画で見たと記憶しているが、こんな笑い話があった。スキー用品店が多いので「この近くにスキー場でもあるのか?」と尋ねた外国人がいたが「一番近いスキー場でも、ここから200km離れている」と聞いて驚いたという話だ。

東京に出張した日の夕刻、久しぶりに神田駿河台下から小川町のあたりを歩いた。こんな真夏でも店頭にスキー・スノボが並んでいるのを見ると、やはり嬉しくなってしまう。(現地訪問:2015年7月)

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真夏でもスキーやスノボが店頭に並ぶ。

尾上平スキー場(岐阜県高山市)

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(左)蛭ヶ野林道の途中から見たゲレンデ全景。かすかに樹林の少ないゲレンデ跡がわかる。(右)ゲレンデには赤錆びたリフトの鉄柱やナイター設備が残っている。

はじめてこのスキー場のことを知ったとき、地図上でその場所を確認して驚いた。こんな山奥にほんとうにスキー場があったのだろうか。郡上市ひるがの高原から山をひとつ越えた北側。ゲレンデの所在地は高山市(旧荘川村)にあたる。ネット上で調べると、MTBなどのツーリストによってロッジやリフトの写真がアップされている。いつかは足を運ばなければと思っていた。

「熱中症に注意」といわれる真夏の休日、ひるがの高原を目指す。ひるがの高原スキー場の少し南を、国道156号から西に入る。別荘地の中を北西に向かって登っていくと、やがて道はダートな林道となる。峠状の場所にたどり着くと、左へ進む蛭ヶ野林道も右の大黒谷林道もゲートが閉まっている。冬期にはゲートが開いていることもあるようだが、この季節、ゲートが閉まっていることは計算済み。準備してきた登山の支度を整えて、蛭ヶ野林道を歩いて進むことにする。

林道は概ね山腹を左に見て巻いていく。40分ほど歩くと前方が開け、谷の向こうにリフトの鉄塔やナイター照明の立つ斜面が望める。うっすらと樹木の少ない東向きのゲレンデの形跡も見て取れる。そこから林道を7~8分も下れば赤い金属屋根のロッジの前に出る。ここで林道は二分していて、右はゲレンデ下に、左に進めばゲレンデ中腹に出る。

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(左)廃屋と化したロッジは意外と大きな建物でしっかりした造り。(右)リフト券もこんな値段の時代。

右にたどればすぐにロッジへの踏み跡が左にある。ロッジはガラスが割れ廃墟と化しているが、思ったよりも大きな建物で構造はしっかりしていた。1階は宿泊用、2階は広い食堂だったようだ。食堂にはシングルリフトのチェアが置かれていた。このロッジから考えると、思っていたよりも規模の大きなスキー場だったようだ。

リフト乗場はゲレンデトップに向かって右手にあって、左手にあるロッジとは少し離れている。そのリフト乗場までは夏草を掻き分けて進まなければならなかった。乗場まで行ってみると、リフトは並列に2基あったことがわかった。草木に覆われ、リフトの遺構である錆びた鉄柱とワイヤーが斜面を駆け上っていた。

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(左)リフト乗場。2基が並列だったようだ。(右)2基のリフト乗場と傍らには機械の操作室。

ロッジの前までもどり、ゲレンデ中腹まで登っている林道をたどる。ほんの10分ほど歩けば、この林道をリフトのワイヤーが横切っている場所に出た。乗場でリフトは並列2基であることがわかったが、1本(左側)はここが終点、もう1本はさらに上部まで通じている。しかし、上部はまったく樹林の中に飲み込まれていた。傍らにはナイター照明が立っていたが、その姿は何となく所在なさげに見えた。

このスキー場についてはいろいろと資料を探したけれど、あまり情報が得られなかった。大垣市の企業が経営していたが、1987年頃に閉鎖したという。この立地条件になぜスキー場をつくったのか、そしてアクセスはどうだったのか、大いに気になるところ。みんな車でこの山道をアクセスしたのか、白鳥あたりからバスでもあったのか……。さすがに周囲は自然が豊かで、ゲレンデ周辺の渓流には清冽な水が流れていた。(現地訪問:2015年8月)

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(左)ゲレンデ中腹。左側のリフトはさらに上部までワイヤーがのびている。右手のリフトはここが終点。(右)現地のようすから想像してつくったゲレンデマップ。

比叡山人工スキー場(京都市左京区)

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(左)京都側から比叡山へのアクセス手段のひとつ「叡山ケーブル」。(右)斜面下から見上げたゲレンデ全体。

最澄が開創した比叡山延暦寺は多くの高僧を輩出し、現在も日本仏教のひとつの中心となっている。そんな比叡山や北山の奥にはいくつかのゲレンデがあると知ってはいたけれど、どうも京都にスキー場のイメージはあわないと感じていた。

この比叡山人工スキー場は、京都の北東に位置する比叡山の頂のひとつである四明岳の北西斜面に開かれていた。1964年に開業。冬は天然雪に加えて人工雪との組み合わせで、そして夏期もグラススキーやアストロスキーで営業をおこなっていた。暖冬による雪不足やスキー人口の減少により、2000シーズンに夏期の営業を休止し、2001冬期シーズンを最後に閉鎖となった。

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(左)ゲレンデ下にはレストハウスなどの建物が残っている。

「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」には以下のように紹介されている。「京都市内、中心街からでも30分。ペアリフト1基と平均12度の人工ゲレンデのスキー場。足慣らしや仕事帰りのひと滑りに多くのスキーヤーが近郊からも集まる。ソリ専用ゲレンデ、スクール、ナイター平日21時30分、休前日22時」。ペアリフトの長さは170m。期間は12月中旬~3月中旬となっているが、これは冬期営業の期間だろう。アクセスは叡山電鉄八瀬比叡山口駅からケーブルカーで山頂下車、徒歩10分。車では、京都東ICより国道161経由比叡山ドライブウェイ山頂まで20km。

京阪電鉄で出町柳へ。そこからは叡山電鉄の電車で八瀬比叡山口へ。さらに叡山ケーブルに乗って、ケーブル八瀬駅からケーブル比叡駅へ。このケーブルカーは日本一の高低差(561m)を誇っていて、急勾配を登っていくと眼下に洛北の景色が広がる。ケーブル比叡駅に降りると、さすがに京都市街に比べて気温がずっと涼しい。私以外の乗客はすべてロープウェイ乗場へと向かってしまった。ロープウェイに乗り比叡山頂から延暦寺方面へ、さらに坂本ケーフルで琵琶湖側へと下るのが一連の観光コースとなっている。

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(左)リフト乗場には小屋などが残る。(右)リフトは搬器をはずされたまま残っている。

一方、私は杉林の北斜面につけられた林道を歩く。頭上をロープウェイが通り過ぎていく。10分ほどで視界が開け、ゲレンデの下に到着する。ゲレンデボトムになる左手にはレンタルスキーやレストハウスが建物が、やや廃墟化しながら建っている。右手には緩やかな斜面が広がっている。正面奥、すなわちゲレンデトップに向かって左手にペアリフトが残っている。搬器ははずされ、樹木が繁ってリフトの機器の間に入り込んでいる。

見上げるゲレンデは緩やかな1枚バーンで、基礎練習にはもってこいといった感じ。斜面は背の高い草が点在している。ゲレンデ右脇の道を登っていくとロープウェイ比叡山頂駅に出る。付近一帯にはガーデンミュージアム比叡という庭園美術館が広がっている。その展望塔からは京都と琵琶湖、双方の展望を楽しめるらしい。コンパクトな規模とはいえ、市街地からは身近なスキー場であったことが感じられたけれど、同時に時代の変化も感じざるをえなかった。(現地訪問:2015年8月)

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(左)ゲレンデ中腹から下部を見おろす。(右)「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」を参考につくったゲレンデ図。

千の坂スキー場(新潟県十日町市)

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(左)松之山温泉街。(右)資料などから推測した千の坂スキー場の位置。

松之山温泉は、草津温泉・有馬温泉とともに日本三大薬湯といわれている。その泉質はホウ酸含有量日本一で塩分濃度も高い。温泉地ではあるものの歓楽的な雰囲気は少なく、里山の自然美を色濃く残している。山深い豪雪地であり、小正月に松之山の新婦を娶った新郎を雪の中に放り投げる「婿投げ」という奇祭が行われることでも知られている。

それほどの豪雪地であるから、温泉とスキーをセットにした集客も当然考えられ、現在もペアリフト2基の松之山温泉スキー場が営業を続けている。松之山温泉街から南へ1kmほどの場所である。この松之山温泉スキー場は1983年の開設であるが、それ以前に松之山にあったのがここで紹介する千の坂スキー場である。

「スキー天国にいがた(1975年、新潟日報事業社)」には以下のように紹介されている。「松之山温泉から徒歩5~15分のところにあり、主に初心者向けのコース。スロープは400~500mで小規模スキー場である。(後略)」。また、「松之山町史(1991年)」には以下のように記されている。「早くから大松山周辺がスキー場として利用されてきたが、温泉場付近にスキー場がほしいという観光客の要望にこたえて、昭和39(1964)年に千ノ坂スキー場がオープンした。51年には津南町で使用されていたロープトウが設置され、無料休憩所もできた」。しかし、その後さらに本格的なスキー場建設が必要とされ、現在の松之山温泉スキー場が登場することになるのである。

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(左)木造三階建の堂々とした凌雲閣。(右)古いプールの向こうがゲレンデだったと教えられた。

小雨降る9月の午後、松之山を訪れる。「スキー天国にいがた」にあった地図から、温泉旅館・凌雲閣の近くではないかと考えていた。松之山温泉街への入口から少し南下した場所に凌雲閣は位置している。年月を経た木造三階の建物は存在感を放っていた。その窓口でスキー場について聞いてみると、「その脇の道を行くとプールがあって、その向こうがゲレンデでした」と教えていただけた。

駐車場の脇の道を進むと使われていないようすのプールがあって、その向こうに右上(西)から左下(東)への斜面があった。手前の部分(北側)はススキが繁っていて、向こう側は棚田が並んでいる。その中を温泉街上部の不動滝へ通ずる車道が通っている。どのあたりまでがゲレンデだったのかははっきりしないが、この斜面だったことは間違いないだろう。ロープトウが架けられていたらしいが、スキー場の痕跡は何も残っていない。しかし、スキーをするのには程よい傾斜のように思えた。棚田の稲穂は収穫を前に首を垂れはじめていた。(現地訪問:2015年9月)

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(左)下部から斜面を見上げる。(右)谷を挟んだ東側から見た斜面全体。

ARAI MOUNTAIN & SPA(その4)(新潟県妙高市)

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(左)膳棚第一クワッドの降り場。遠目には営業時とあまりかわらない様子に見えるが。(右)新井ゴンドラ終点・膳棚第一クワッド乗場があった膳棚付近のようす。

ふと思い立って、このARAI MOUNTAIN & SPAの背景をなす大毛無山への登山に向かった。このスキー場がなければ、この山に登ることもなかったと思う。地図を見ると、登山道は最上部の大毛無メインステージのゲレンデの上部につけられていて、登山道からゲレンデのようすを見おろせるのではないかという期待もあった。掘割登山口から1時間強で山頂。その途中の登山道の脇に、膳棚第一クワッドの最上部があるはずだ。

結論からいえば残念ながら、この登山でゲレンデのようすをあまり知ることはできなかった。登山道は終始樹林帯の中を行くので、斜面下のようすはわからない。膳棚第一クワッドの降り場は確認できたものの、リフトに沿うコースは草木の中に埋もれつつあることぐらいしかわからなかった。

この大毛無山の掘割登山口まては、このスキー場内を上っていく大毛無林道を延々と車でたどる必要がある。そこでゲレンデ内の各ポイントについて、再度、下山途中に林道から写真を撮ってみた。遠目にはそれぞれの施設はまだしっかりしているように見えるが、近寄るとガラスや壁などが崩れている様子が見てとれる。

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(左)小毛無第一クワッド終点。(右)山麓第二ペア終点。

今年に入ってから、このARAIをめぐってはさまざまな動きが出てきた。3月には期間限定で「大毛無山の魅力再発見ツアー」がおこなわれた。日本初のクラブフィールド化によって、このARAIをよみがえらせようという動きの始まりであった。しかし、不動産公売により18億円にて落札者が決定。クラブフィールド化は困難になったとされている。落札者がどのようにスキー場を復活させようとしているのかは、いまのところ聞こえてこない。完全復活の日は来るのか、あるいはもう少し別のかたちで姿をあらわすのか、この広大な斜面を見ていると、いずれにしても必ず復活の日が来ることを信じたくなってしまう。(現地訪問:2015年10月)

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(左)ゲレンデ上部の全体。右下に新井ゴンドラ中間駅と小毛無第一クワッド乗場。中央上部に新井ゴンドラ終点と膳棚第一クワッド乗場。こう見るとあらためて規模の大きいスキー場だったことがわかる。(右)下部から見た新井ゴンドラ中間駅。

こちらもご覧ください→「ARAI MOUNTAIN & SPA(その1)(2009年3月15日)」「ARAI MOUNTAIN & SPA(その2)(2011年7月30日)」「ARAI MOUNTAIN & SPA(その3)(2011年8月10日)」

浦の原スキー場(伊那市/旧長谷村)

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いまは伊那市に合併となった長谷村。主要な集落は国道152号と三峰川に沿った地域に点在している。国道から南東に離れた三峰川の上流、その山中に位置する浦という集落は、檀ノ浦の戦いに敗れた平家の落人「平維盛」の子孫が住み着いたといわれている。古老は「檀ノ浦村」と自称し、それが「浦」の地名の由来だという。

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(左)浦の集落。(右)小松氏先祖の墓(伊那市文化財)。

この浦の小松氏が平家の流れを汲んでいるとされ、小松家とその側近であった西村家では春彼岸中日に先祖祭をおこなっている。赤旗を竹竿につけて墓の生垣に立てる。その後、「小松内大臣平重盛卿」の文字が書かれた掛軸を床の間に掲げて、盛大な祝宴をあげるのだという。正確な歴史検証は今後に俟つ部分が大きいといわれているが、そんな話を聞くだけでもこの土地の歴史に思いを馳せてしまう。

この土地にスキー場があったことを知ったのは「長野県上伊那誌・現代社会篇(1967年1月)」の記載によるもの。同誌では「浦の原スキー場」について以下のように紹介されている。「伊那市から浦までバスの便がある。標高1,300m余り、三峰川の溪谷に面したスロープで、冬季は平均40~50cmの積雪があり、初心者のスキーに適している。また、夏はキャンプ地としても好適である。」

また、昭和30年代後半から40年頃の地元紙には、この浦のスキー場についての記事を見ることができる。「例年ならば里に雪はなくても山岳地帯の浦スキー場は雪のない年がなかったが、この冬に限って淋しい冬(雪不足)だと関係者はこぼしている。(昭和40年1月)」「今秋拡張工事の完成をみた長谷村浦の原スキー場はさきの降雪で二十センチの積雪がありホツホツスキーを.楽しむ客が訪れている。(中略)あまり知られていないので、長谷村観光協会ではパンフレットを作成、新年早々には完成するので各方面へ配布する(昭和35年1月)」

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(左)浦の集落から西側の山並みを見る。前方の山並みの奥にゲレンデがあったというが。(右)浦の集落から見た仙丈ケ岳。

南信方面の山に登った帰りに、浦を訪れる。山中の道を車でたどり、「なんでこんなところに」と思える浦の集落にたどりつく。廃屋もあるのだろうが、しかし、思ったよりも多くの家が建ち並んでいる。集落の中で見かけた年配の方、数人にスキー場について尋ねてみる。ゲレンデは集落近くにあったと思っていたが、かなり西側の山中に入ったところだったようだ。「中沢へと越えていく途中の北斜面。窪地のようになっていて、そこは積雪が多かった。美和湖の方角も見渡すことができた」という。

浦の西側山中に上っていく林道あたりかと思ったが、そうでもないらしい。古老の話では「歩いて登っていくしかない。きちんと支度をして」とのことだった。そんな話から地図上で推測すると、入野谷山から北北東にのびる尾根がやや広くなったあたりかと思えるのだが、それでは西側の分杭峠あたりから入った方が早そうだし、スキー以前に最低でも標高差300~400mの登山の様相を呈してくる。いずれにしても、この日はゲレンデの場所は特定できなかった。再訪の機会にあらためて調べたいと思う。振り返ると、谷を挟んで仙丈ケ岳が午後の光を受けて輝いていた。(現地訪問:2015年10月)
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